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大正琴の歴史
黎明期の大正琴
大正琴は、名古屋の旅館森田屋の息子の森田吾郎が、当時使われていたタイプライターのボタンをピアノの音階の配列に並べて、二弦琴(長い板に二本の弦が張ってある琴)に取り付けることを思いつき、試行錯誤の末に完成しました。 弦がゆるみやすいなどの欠点などから発明当初はおもちゃとして扱われていましたが、誰でも気軽に始められる趣味として大ブームになりました。
大正琴は、名古屋の旅館森田屋の息子の森田吾郎が、当時使われていたタイプライターのボタンをピアノの音階の配列に並べて、二弦琴(長い板に二本の弦が張ってある琴)に取り付けることを思いつき、試行錯誤の末に完成しました。 弦がゆるみやすいなどの欠点などから発明当初はおもちゃとして扱われていましたが、誰でも気軽に始められる趣味として大ブームになりました。
海を渡った大正琴
大正時代の後半には、大正琴ブームは国内に留まらず、東南アジアを中心に海外へも輸出されました。
しかし、戦争の足音とともにブームも下火となってしまいました。
大正時代の後半には、大正琴ブームは国内に留まらず、東南アジアを中心に海外へも輸出されました。
しかし、戦争の足音とともにブームも下火となってしまいました。
古賀政男と大正琴
昭和30年ころから再び大正琴を楽しむ人が増え、古賀政男が自ら大正琴を弾いた村田英雄の「人生劇場」が昭和35年にヒットすると、再び大正琴のブームが訪れました。
昭和30年ころから再び大正琴を楽しむ人が増え、古賀政男が自ら大正琴を弾いた村田英雄の「人生劇場」が昭和35年にヒットすると、再び大正琴のブームが訪れました。
大正琴アンサンブル
琴伝流が昭和49年に発足し、アルト大正琴、テナー大正琴、ベース大正琴を次々に開発すると、大正琴のみで深みのある合奏ができるようになり、大正琴は「ひとりで楽しむ大正琴」から「みんなで楽しむ大正琴」に大きく変貌を遂げました。琴伝流の大正琴アンサンブルの実現は、今日の大正琴音楽文化の礎として高く評価されています。
琴伝流が昭和49年に発足し、アルト大正琴、テナー大正琴、ベース大正琴を次々に開発すると、大正琴のみで深みのある合奏ができるようになり、大正琴は「ひとりで楽しむ大正琴」から「みんなで楽しむ大正琴」に大きく変貌を遂げました。琴伝流の大正琴アンサンブルの実現は、今日の大正琴音楽文化の礎として高く評価されています。
多くの流派の誕生
昭和50年代半ばに大正琴が合奏で楽しまれることが一般的になると、奏法や音楽表現の違いから各地で流派を名乗る団体が急激に増えました。流派は現在100以上あるといわれており、琴伝流のように40万人規模の流派から、数十名程度の小さな流派まで様々です。
昭和50年代半ばに大正琴が合奏で楽しまれることが一般的になると、奏法や音楽表現の違いから各地で流派を名乗る団体が急激に増えました。流派は現在100以上あるといわれており、琴伝流のように40万人規模の流派から、数十名程度の小さな流派まで様々です。
社団法人大正琴協会の設立
平成5年には琴伝流、琴城流、琴生流、琴修会、琴心流の5流派により、文部省(現文部科学省)の認可の下、社団法人大正琴協会を設立し、流派を越えた大正琴音楽の普及体制が整いました。
平成5年には琴伝流、琴城流、琴生流、琴修会、琴心流の5流派により、文部省(現文部科学省)の認可の下、社団法人大正琴協会を設立し、流派を越えた大正琴音楽の普及体制が整いました。
大正琴マメ知識:「たいしょうごと?」「たいしょうこと?」
「大正琴」は何と読むのでしょう。現代の多くの辞書には「たいしょうごと」と掲載されていますが、「たいしょうこと」と読む方も多くいて、どちらも正しいとするのが実態に合っています。大正8年の教本には「たいしや(ょ)うきん」とフリガナがあり、大正9年、昭和4年の教本では「たいしや(ょ)うこと」となっていて、大正の終わり頃から「たいしょうこと」と呼ばれるようになったようです。
尚、「たいしょうごと」をローマ字にすると「taishogoto」(または「taisyogoto」)となり、外国の方が「琴」をイメージしにくいことから、海外演奏の際は「taishokoto」(または「taisyokoto」)と表記することが多いようです。ちなみに社団法人大正琴協会では同じ理由で「taisho-koto」と表記しています。
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前から大正8年、9年、昭和4年の教本 |
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| 「たいしや(ょ)うきん」のフリガナ | 「たいしや(ょ)うこと」のフリガナ |





